明日、10月22日よりギャラリーきりん舎を開館します。南山城学園 円(まどか)と、みずなぎ鹿原学園の作品を展示します。人の表現行為の不思議を実感させられる作品です。
NPOスウィング 「オレたちひょうげん族」 からの「Not ART BRuT.」。きりん舎の庭の木々も生い茂り、蒸し暑くなったこの日、会場には大勢の人が訪れ、文字通り熱気ムンムンの一日となりました。絵画以外にも数多くの詩が展示され充実のボリューム、また作家のQさんとXLさんによる、似顔絵コーナーあり施設長の木ノ戸昌幸さんのトークあり、盛りだくさんの1日でした。
会場入ってすぐ目に入るのがXLさんの「川底の砂利」「さよならプーケット」「夜の東華菜館」「摩天楼を舞う」「ピサの優しい斜塔」「若冲の鶏」他7作品。メリハリきいた美しい配色、小気味良い形が繰り広げられた画面の構成が見事。線も塗りも安定感のあるタッチで、そこから生まれる楽しい画面は得難い個性のように思います。「タクシーを止めるシロクマ」は、強く塗りこめる中にも巧みに分割された面がそれぞれを引き立て、点描も重ねて丁寧なテクスチャーを作り、爪の鋭いシロクマもどこかユーモラスで頼もしく、似顔絵コーナーにいたXLさんの印象と重なりました。
Qさんの作品は「スイスセイソウコウクレーン車」「モアイ大魔神」「ムンクのおどり」「テトリスモアイ」他の6作品。一見してメカやロボットなど機械類に強い興味を持っているらしいことがわかります。似顔絵コーナーでは、依頼相手に好きな色、好きな数字、好きな家具は何かなどの質問をし、相手の顔にさまざまな色模様を取り付けた独創的な似顔絵で周囲を沸かせていました。「バンバン行くネコギター」「女の子カンムス」などでもモチーフを楽しくカラフルに塗り分け、超合金ロボみたいなギアを装着。多少の毒をにじませながら愛嬌で見せてくれます。
1階奥の間に飾られたAckeyの「男前な黒豚」「マリリン・モンロー」「口の中を噛んでしまったチンパンジー」「悩んでいるメンフクロウ」他6作品。描かれた題材が本人にとっての何を意味するのでしょうか、ありのまま差し出された作者と対象にある関係の謎の不思議。直裁な観察を手に伝えた作者にとっての現実が、見る者に引き起こす違和感の不思議。いや、もしかしたらそう見えるかもしれないと思い始める不思議。「湖面に映りそこなった富士山」「お尻を出し過ぎた女」を見ると、画面の分割方法には一種のパターンがあり、これも作者にとっての現実を憶測させる面白さがあります。
階段から廊下にかけて展示されているのがnacoさんの「獲物を狙うオオワシ」「笑うゴリラ」「吠える老チーター」他5作品。はっきりした色を思い切りよくぶつけて画面を再構成。力を込めて描く手は大胆に輪郭をつかんで造形の緊張を生みます。同時に獣の模様にも気を配り、美しい画面です。「闘う女達」は、ボクシングで撃ち合う女性二人の絵。身体を曲げ、必死と忘我の表情でなお相手に組みつく二人の闘士の一瞬をとらえており、茶色、オレンジ、赤紫といった強い色を調和させる力技は見事というほかなく、しなやかな絵の生命力に魅力を感じました。
2階の最後の間を締める矢田陸雄さんの展示は、「黒髪が日に灼ける」「向こう側を見ている」「スフィンクスの苛立ち」「こっちへ来いよ」他5作品。黒地の紙に輪郭を軽く描いて、面を塗りつぶしています。黒地を輪郭線として残し、2~3色という限られた色数で光の部分を塗りつぶすのでネガフィルムのような味わい。また、かすかな塗り残しが版画のような手触りをつくります。偶然に選ばれたモチーフも見る側の意識を揺さぶる効果を上げており、「国技館の熱狂」は前面に二人の力士のぶつかり合いが固まりとなり、背景に引いたトーンで描かれた行司のわずかな表情から奥行きが感じられて、それぞれのドラマを見せています。
増田政男さんの「Tバック」、辻井美沙さんの「能天気」、吉村千奈さん「おいしいよ ばんごはんより あさごはん」のような心に浮かんだことを率直に、つぶてを投げるように言葉を吐き出したテキスト作品。本人にとっても面白く、また人をも笑わせたいのか、おならやちょっとエッチなことが書いてあると、思わず笑ってしまい心に風穴を開けてくれます。普通の考えに愛嬌をまぶして作者の人となりを垣間見せる一方、Qさんの「こわい物」「障害者」「多すぎる」などでは不安、望み、閉塞感なども表され、世間の矛盾を鏡で映しだすような言葉が並べられていました。
テキストで一番展示の多かった向井久夫さんの作品は「おなら」「おなら」「おふろのたのしみ」「スケベ」「そら」「どこまでも」など。かわいいめだか同士のキスを見る「めだか」で作者の目が印象に残りました。かなえさんの「やさい」は、なんでも好き、食べると言いながら、最後はピーマン、アボカド、セロリと結局3つも嫌いと結ぶおもしろさ。西谷文孝さんは、それがどうしたとツッコまれそうになりつつ良かったなという展開の「雨もり」など、ほのぼのとした口調の中に言葉の背景にあった機敏に思いいたります。Gさんの「やさしくだきしめて」は、短くキャッチ―でカッコよかったです。
「表現は変わる。人も変わる。」と題したトークでは、スウィングの施設長である木ノ戸さんが、施設の立ち上げや概要紹介、カギとなったXLさんやQさんとの13年前の出会い、10周年を迎えた施設の変遷や、それぞれの人の個性など、日常のスナップ写真を交えて紹介。作業所の様子を淡々と示した写真は、創作活動や表現活動はスウィングの日常活動の積み重ねからうまれる一部だと示しているように思われました。また、それぞれの作者の絵と関わり始めから、現在に至る作風の変化もエピソードを加えて紹介。絵を描く行為に没頭し、表現も大胆さと注意深さを備えていく過程がよく伝わりました。活動会員が誰にもまねのできない作品を作るようになった展開に注目した木ノ戸さんの視線は、一方的な解釈を加えることなく、一人一人の個性と向き合うスウィングの目指しているところのありのままを知ってほしいという気持ちがよく表れているように思いました。
質疑応答では、どうしたらNPOスウィングのような運営ができるか、また「アールブリュット」という言葉に対するスタンスはどのようなものか、などの意見交換がありました。木ノ戸さんの話は、表現の根っこにあるのはその人の生活であり、スウィングはその人の魅力を引き出すよう心掛けながら、生活の困りごとがあれば関わっていくとのお話でした。また「アールブリュット」という言葉の流通は問題を隠蔽していると指摘し、「アウトサイダーアート」と隠さずに言うことで議論のきっかけを持つことができるということでした。スウィングが見出した「オレたちひょうげん族」は、その軽い響きで「Enjoy! Open!! Swing!!!」という理念のままに、今後も障害福祉の既成概念をヒョイっと飛び越えてくれるのではと思います。スウィングのみなさん、とても楽しい一日をありがとうございました。
社会福祉法人しがらき会 信楽青年寮の作品制作の歴史は古く、1950年代に始められました。それぞれの作品は額装がなされ、各作家さんについての情報なども詳しく記されています。今回展示の作家はほぼ1940~50年代生まれがほとんどで、中に1967年生まれが一人という状況。多様で作品も多く、作家8人という異例の多さで展示を行いました。
ペンキの塗り固まった跡も生々しい藤野公一さんの「ネコ」、「たこ」2点、「さかな」の4作品。ともに一様に黒で塗り込め、赤や青の純色を使って丸い目を大きく描くと、そこだけがビー玉や信号機にも見えます。シンプルな形に塗り込められた体と手足には一定のパターンが見られ、作者自身の何かの確認をたどっているのかもしれません。飛沫は美しく、ペンキは黒い海のように画面の表面をたっぷりとたゆたっており、印刷物では決して見届けられない手の喜びが表れています。
伊藤喜彦さんの3作品は一見してわかる穴へのこだわり。こねた陶土に形態が生まれ、増殖し、連なり、鮮やかな赤や青磁の釉薬が落とされ、迫力が備わっています。どれも「鬼の面」と名付けられ、それぞれの穴は目、鼻、口かもしれませんが サンゴ?背骨?節足動物?のようでもあり、生にまつわる原初的なイメージも想起させます。その一方で、作者自身が自身の手から放たれた形態を発見し楽しんでいるのではないでしょうか。
きりん舎では初めて見る絵のタッチ。小林祥晃さんの「無題」2作品は、白い画面に色鉛筆が繊細な筆致で塗り重ねられ、オリジナリティを感じます。画面の端から中心に向かって、手首を支店に鉛筆を上下に動かし、リボン状の波形模様が現れます。リボンが現れる中での作者の発見が次のリボンを生み、さまざまな光が画面に満たされます。時折リボンから何らかの形に変化をとげる意思があり、作者の想像の翼がはばたくさまが見る人を引き寄せます。
絵本作家の田島征三さんとの出会いから生まれた「もりへさがしに」がボローニャ国際児童図書展のグラフィック賞推薦を受賞した村田清司さん。「無題」5作品は、いずれも目・口・輪郭といった人の笑顔を思わせる形が連なり、楽しい画面構成。クレヨンを使う村田さんの描きぶりは、ためらいのない直線に意思のコントロールを感じさせると同時にフリーハンドの柔らかな筆致が重なって稀有な表現です。色彩も、清々しいグレーやパステル調が静かに整い、オレンジや茶色といった強い色を引き立て、目に喜びを与えます。
西村己代治さんの陶板「無題」は3つで1組。西村さんが成形し、焼成にあたって職員が藁を置いて作った合作。四角い陶板に大小の穴がひたすら穿たれ、素焼の生(き)の色をベースに、藁灰の成す墨色、白色におもしろい効果が表れています。穴は規則正しく並んでいるようでいて、大小の点の構成、場所によって生じる疎密、点の流れと中断があり、作者をドライブするドットの力や美しさに空想を掻き立てられます。
大江正章さんの陶土による動物のフィギュア群「サル」、「ライオン」、「ゾウ」、「カバ」、「オウム」、「アルマジロ」、「キリン」、「ネコ」の8点。複雑な色の使い手で、派手さは無く、動物たちの再現に忠実でいながら、まるまるとしたフォルム、愛嬌ある表情、小さくつぶらな瞳、ぬいぐるみのように抱きしめたくなる愛らしさ。動物の形は粘土の塊のままで、実際は持ってみると大変重たい作品となっているのですが、作品からにじみ出る優しさは、見る人を幸せにします。
酒井清さんの「顔」4作品は、顔の形は平べったい形のほか、寸詰まりの砲弾風、ビールジョッキ風とバラエティがあって、角のような突起をはやした頭、輪なった目、舌を出した口、大きな耳など、とぼけた表情が楽しい。頬から出た突起は髭なのか、ドジョウのようにも見えてユーモラス。漫画のような表現なのに、表情が生き生きとして、よくよく見るとああこういう人いるかも!と思えてきます。陶の椅子になった2作品も展示され、てきりん舎の風景をにぎわせていました。
緑色を基調として厚く塗りこめられたクレヨン。それを掻き削り、ほのかな輪郭線や色彩が現れる。あるいは鮮やかなレモンイエローの画面にふわりと現れたカップ状(あるいは顔の輪郭か?)の何か。池田邦一さんの「無題」3作品は、塗り込められた画面から何か取り出そうとするところに謎があり魅力的。しかしながら緑色基調と見えていたものは、青、赤、黄、ピンク、その他の多色を下層に塗り重ねており、重たい海の水のように深い色が揺れています。もしかすると作者には本当にこのように世界が見えているのかもしれません。
信楽という地域ゆえ窯元との関係も深く、陶作品の充実が特長として表れていた今回の展示。小皿、器のほか手芸作品などのグッズも多く、また大江さんのミニ陶芸動物人形も充実していました。展示は3月20日まで。ぜひご覧ください。
11月半ば、綾部の週末は雨まじり。きりん舎のアプローチは庭の緑が一段と大きくなり、ピンオークの葉が朱色に色づいて、しっとりとした雰囲気になりました。
今回のきりん舎の展示は、兵庫県の但馬地方を舞台として毎年11月に開かれているアールブリュット公募展「がっせぇアート」で発表された方々のなかから、きりん舎がピックアップした5人の作品展示です。きりん舎では2度目の登場となった茨木朝日さんをはじめ、それぞれに個性と表現力のある作家さんの作品が集まりました。
岡村智裕さんの作品5点。黒い紙や黒く着色した板の上に多くの色のクレヨンを強く塗り重ねたもの。写真を見る限り外側から中へと紙の形を縁取るように描いているようです。黒の背景に鮮やかさを引き立てられたスペクトラルが画面から発散するように感じられます。強烈に主張する色とパステルカラーを区別なく使用しながら、重なった部分が程よくグラデーションとなり、互いを引き立てあい、柔らかな光を放ちます。岡村さんの作品群に囲まれ、虹のオーラのようなふわりとした優しい光に包まれるように思いました。
今田清志さんの5作品。白い紙をベースにして、人の顔にこだわりがあるのか、顔だけ、もしくは顔を強調し、簡略化された四肢と胴体をつけ足した人物などを延々と並べています。顔や耳、目鼻口の輪郭を丸く線描し、時にその輪郭線を塗り足して強調しながら、中の空白を埋めるように描き込んでいます。目の瞳を描かない場合は表情が読み取れず、描かずにおられないという強迫観念も感じる一方で、瞳が描き込まれ、眉や口の形に表情がある作品や、菩薩の顔のようにも見える作品、楽しく人々が集っているようにも見える作品もあり、今田さんが描く謎が、見る側にも照射される謎として差し出されています。
茨木朝日さんは、去年、今年のがっせぇアートの展示を中心に選ばれた6点。くっきりと明るい色調でパズルを解くように画面を分割しながら、楽しく描いていることがすぐにわかります。美的感覚の確かさは健在で、目にしたものを正確に描写することと同時に創造の翼を広げてのびのびと描くことで、独自の世界観が生まれています。今回はスパンコールや、キラキラした紙、ペットボトルの蓋など、画材にこだわらず挑戦する作品も増えました。また黒の画用紙を使って、色鉛筆を塗り重ねた「くらやみからババッと」は、繊細な筆跡から息を潜めて暗がりからささやきかけるような画面がすてきでした。
2階に掛かった川島清一さんの作品は、どんな紙であろうと、紙片と見るやいてもたってもいられず描いてしまう川島さんと、その1枚1枚を集めて貼り付け、大きな画面として構成したがっせぇアートのボランティアのみなさんの共作といえるかもしれません。土偶のような、鬼瓦のような、古代の神の仮面のような、不思議な形をした顔、顔、顔。こいのぼりの緋鯉や真鯉に似た魚たち。書きつけられた漢字のような文字の羅列。意味があるのか一定の描き癖パターンがあり、これらが1畳くらいの大画面になると、色鉛筆による薄い筆致であるにもかかわらず、絵の構成力が息づき始め、迫りくるようです。
池田巧さんの作品は、数字のコラージュ作品とコンピュータとペイントソフトによる画像作品の3点。きりん舎でデジタルアートの展示は初めてです。池田さんがスクエア状のパーツを繰り返し描いて作った何百枚という画像です。「数字」にこだわりを見せる池田さん。コンピュータを得たことで、新たな表現力を手に入れたようです。形態パターンのクラスターの周囲には膨大な間があり、たいていの背景色にコンピュータの初期設定を思わせる黒が使われる中、時折、白、ピンク、黄色、緑色などの鮮やかな背景色も試みられ、無意味と意味の間を行きかう形の戯れに、こちらの想像力が掻き立てられます。
今回の展示のカギとなったがっせぇアート展。「がっせえ」という言葉は但馬弁で「すごい」
とのことで、障がい者それぞれの個性とイキイキ、のびのびとした表現を大事にしたいという関係者の願いが感じられます。
今年で6回目を迎えたがっせぇアートは、但馬地方在住の18歳以上の精神および知的障がい者のアートを紹介してきました。これまでは但馬ボーダレスアートとして活動されてきましたが、4月から特定非営利活動法人がっせぇアートを発足し、新たに出発しました。
(参照URLはこちら→ 特定非営利活動法人がっせぇアート http://artles.exblog.jp/)
今回の取材では、茨木さんご一家をはじめ、がっせぇアートの方々もきりん舎に遊びにこられ、取材者としても久しぶりのみなさんとの再会を楽しみました。最近の取り組みとしては、新たにアトリエを開所されたとのことで、障がい者の方々が立ち寄って、楽しく集いながら作品を作られるスペースができたそうです。みなさんすてきな方たちばかりで今後とも応援していきたいと思います。
ギャラリーきりん舎では、11月の展覧会「がっせぇ五人囃子」が開催中です。
「がっせぇ」は但馬弁で「すごい」という意味。今年で第6回目をむかえた、但馬ボーダレスアート展「がっせぇアート」で活躍されている作家の中から5人を選抜しての展覧会です。「がっせぇアート」は100人以上の作品が一堂に会する迫力満点の展覧会ですが、この展覧会では個人の作品にじっくりと向き合えます。
アットホームな、きりん舎の空間で見ると作品ものんびりとくつろいでいるようにも感じられます。
今回販売のTシャツは、直接ペイントされた一点ものです。他のグッズもおすすめです。
展覧会は11月28日土曜日まで開催中です。秋の行楽をかねて、綾部のギャラリーきりん舎をのぞいてみてください。
7月4日から19日まで開かれた展示会「遊ぶ心 – 躍る表現」会期中の7月12日 (日) に、NPO法人きりん舎設立記念のギャラリー・トーク・イベントとして、水野哲雄(京都造形芸術大学名誉教授)・井上多枝子(バンバンアトリエ担当、NPO法人はれたりくもったりアートディレクター)両氏による講演会と座談会が開かれました。前回のブログに引き続き、今回のブログでは、後半の井上多枝子氏の講演と、その後に行われた座談会の様子についてまとめました。井上さんは、作品の写真などを掲載した印刷物を配布され、それを参照しながらという形で講演を行われました。以下はその要約です。
まず、本展示会に出展されている、滋賀県のバンバンという施設のアトリエの作家の方達についての紹介です。
入り口展示の畑名祐孝さんは、墨、クレヨンとかパステルなどを使って制作されます。画材の感触を楽しむことがいつの間にか作品になってしまうということを同時進行でやってしまわれます。だから、完成した作品自体にはあまり興味を示されません。
次に1階展示の村井崇さんですが、墨とクレヨンなどの画材を使われるますが、この方は最後に墨を使われます。下書きはするがあまりとらわれず、プロセスを大事にしており、動物のカメかヒョウを書かれることが多いが、今回は人間ぽいのを書かれています。ご本人は何を書いているかわかっています。
同じく1階展示の宮本亮さんは身体の障がいが多く、絵は描けないと考えておられたが、油絵を指でいじることで描けるようになりました。油絵は乾きがゆっくりなので扱いやすいということもあります。疲れやすい体質だけれども、油絵を描く時は2時間でも3時間でも続けておられます。
階段から2階の展示の久保田洋子さんは、ファッション雑誌などを見ながら絵を描かれます。パッと見るとびっくりするような絵ですが、すごく綺麗な女性を描いているということだそうです。
2階展示の西村真智子さんの場合は、何を描いているかは説明されませんが、迷いなく画面に向かっていって作品ができあがります。作品を見てもらうことが好きですし、展示会では自分の絵をじっくり見ていて自分の作品が好きなんだなと感じられます。
バンバンを初め、日本のいろんな施設でアトリエを設け、障がいのある方のクリエイティブなもの造りを仕事に結びつけようという活動をされているところも増えてきています。滋賀県のやまなみ工房では、箸置きや皿などの目的のはっきりしたものを考えず、障がいのある方が自分から出してくるそのままのものを作ってもらって、そのものを商品にするという形で活動されておられます。
(本展示会以外の写真を参照しながら様々な制作活動や日常の活動の紹介)
縫い物プロジェクトというのが施設の中にあって、年月をかけてシャツを作っている人もおられます。木工、塗り、絵画があったり、ソバを作ったりパスタを作ったりというような活動もあります。制作をするだけではなく、個人個人でお客さんと対応するというような活動もあります。そうすると、本人からにじみ出る優しい対応が個別にあるということに気付かされます。
ある施設は、そんな個別性をそのまま仕事にできるということを目指していて、本当に楽園のような場所です。このような施設では、作品を制作するというようなクリエイティブな仕事をされている方がおられるが、それとは別に、行動、あるいはパーフォーマンスというような作品もあります。アトリエとしての活動時間外の生活の中で、例えば、袋にいろいろなものを詰めていく、また洗濯物の山にスリッパを置いてみるなどというようなことをされる方もおられます。表現活動というのは生活そのもの、生きている中に存在していて、アトリエと名付けられている時間だけで行われているのではなく、決められた作品を作るための時間以外の日常の生活をしている中にあるということが、施設ではよくわかります。
(別のある施設の写真を紹介)
記憶だけで昔の風景を思い起こしながら描かれている作品ですが、日常的に簡単な方法で壁などに貼られていて、館内で特に高く評価される作品という感じではないが、本人の生活サイクルの中の表現活動になっていたりします。また粘土で人形などを作っている人がいて、作られたものが作品という感じではなく、無造作に貼られていたりしますが、それが不思議な存在感を持っています。展覧会に出されたりしないので外部の人が見る機会がないが、施設と共存している不思議な存在感があります。
(別の写真を紹介; 熊本県23歳の方)
施設ではないのですが、ハサミで紙を切り続けている人がおられます。髪の毛のように、とても細かく切っておられます。お母さんの判断で、一部を額に入れて飾っておかれるようになりました。他の方の賞賛の声により、保管されるようになったとのことです。障がいを持っている方の活動はあまり知られていない場合が多く、表に出にくいのですが、彼の場合は小学校の時に展覧会に展示されたことがあって知られるようになりました。
ただし、施設に通所されている人でも自宅で作品を制作されていることをスタッフがご存知ない場合も多いので、まだまだ知られていない人も多いと思われます。障がいのある人たちの制作状況は環境ひとつで左右されます。表現とはどういうことかということを、みなさんとお話ししながら考えたいなと思っていましたが、水野先生のお話しされた中にすべてあったなという感じがします。
この後、参加者全員による、自由な質疑応答などが行われました。
Q: (参加者) どのようなきっかけで始められたのですか? (切り紙の写真について)
A: (井上) 発語がないので本人からは聞けないのですが、2歳頃、祖母が与えたハサミを使って切り始めたそうです。施設ではこういう作業ができることにはあまり興味を持ってもらえていないので、お母さんはそういうギャップに戸惑われておられます。2歳からずっとハサミを離さなかったが、最近、半年ほどさわらなかったことがありました。なぜ切り紙をやらなかったのか本当の原因はわからないが、ハサミを研いでみたら再び切り紙を始めました。ご両親とも無理やりさせているわけではないのです。自発的なものを待つということも大切なのではないでしょうか。環境というものによって左右されるのかもしれないので、環境を整えることも大事なのかもしれません。
A: (水野) 何のためというわけでもなく、例えば電話しながらつい気づいたらメモ帳に何かを書いていた、というようなことがありますよね。
Q: (参加者) 髪の毛のように細くとのことだが、途中で切れないのですか?
A: (井上) 切れませんね。とても熟練されています。
Q: (参加者) 集中力なのでしょうか? 時間は一気に?
A: (井上) 時間はかかりますね。細くなると集中力も要るので時間がかかります。紙を切るということは我々もしますが、その延長線上なのかなとも思います。全く (健常者の行動と) 異質なことではないのではないでしょうか。
(参加者) よく切れるハサミで切る時に一種の快感のようなものがありますね。
Q: 布を切って絵をかいています。大人の人が対象ですが。3年ほど前に小学校4年生の校外学習で、いろんな布を用意して好きなものを作ってみなさいという学習をしました。その時に、すごく感性が豊かなものが出てきて感心しましたが、健常者と障がいのある方たちとは、感性にどういう違いがありますか?
A: (水野) 基本的には違いはないと思います。障がいのあるなしに関わらず人それぞれ得意なもの、特別なものを持っているからです。学校教育、家庭教育とか地域の教育とかいろんなところで遊んだり学ぶことがいっぱいあるはずなので、一人一人の違いを引き出すことができれば良いと思います。ですから障がい者と健常者とは、表現においては違いはないと思います。この場合、いっぱい布が用意されているという状況が、その小学生たちにフィットしたと思います。そういうものが用意されていると、スイッチがはいるしワクワクする。良い場を作られたなと思いました。
Q: (水野) この中で絵を描くのが苦手という人はどれぐらいおられますか?また、音楽が苦手という人はどれぐらいおられますか?
A: (参加者) どちらも苦手です。音楽の授業の笛の練習の時などは格好だけしてました (笑)。
Q: (スタッフ) 今のご質問は、何か裏があるのですか? (笑)
A: (水野) 苦手なことに対して、みさなんはどのように対処されるのかなと思って。私は、子供の頃からずっと泳げなかったが、あるきっかけで水と仲良くなれた。苦手を苦手と思わず向き合いましょう。
Q: 自分は絵が描けないが、芸術学という科目を選択し、頭の中で思い描いて楽しむことをしています。学生時代の仲間と京都のお寺や美術を鑑賞しています。今回、こちらの展覧会で全然違うものを見て衝撃を受け、楽しませていただきました。絵が描けないものでも絵の楽しみ方があると思います。先生みたいに冒険して、やってみたいと思います。
司会: アールブリュットというものが世の中にあるのだということを、まずいろんな人たちに知ってもらいたいというのがギャラリーとしてやって行こうとした切っ掛けです。今日もそういうことを感じていただけたら成功かなと思っています。 それからシルバーアートも面白いですね。少年アートというのがあったというのは驚きです。「発達とは」について、変化と変容というお話もありました。その時々の見る見方であるとか表現の仕方であるという風に考えると、発達という言葉にはそういう見方があるのだなと思いました。工房での作家の日常から出てくるもの、それは仕事には結びついていない行動であったりしますが、また、それでもそれが仕事になっていってる工房があったりもします。外部とのつながりがどういう切っ掛けでできるかということもあります。ハサミひとつ用意するというようなことを含めて、環境を整えるということが、創造活動の切っ掛けになるような気がしました。
最後に、塩見の方からきりん舎の将来の展望について述べられました。
塩見: ひとつは、持続的にギャラリーの活動をやって行きたい。
一部ではあるが作家に触れてくると、表現活動を行う場、アトリエを自分たちも作ってみたいなという気がします。できるだけ近いうちにアトリエを開きたいという野心を持っています。あまり肩を張ってやらない方が良いというアドバイスももらって、よりやる気が湧いてきました。
なお、本ブログの内容は、公開後、修正・加筆があり得ますので了承ください。
文責: 岸田良朗 (本ブログ編集担当)
7月4日から19日まで開かれた展示会「遊ぶ心 – 躍る表現」会期中の7月12日 (日) に、NPO法人きりん舎設立記念のギャラリー・トーク・イベントとして、水野哲雄(京都造形芸術大学名誉教授)・井上多枝子(バンバンアトリエ担当、NPO法人はれたりくもったりアートディレクター)両氏による講演会と座談会が開かれました。NPO理事長の塩見篤史氏による挨拶の後、まず初めに、水野哲雄氏の講演が行なわれました。水野氏は、幼い頃、ひとりで自然と触れ合った体験談などを交えながら、芸術と、「表し」と「現れ」という語をキーワードに講演を行なわれました。また、京都造形芸術大学のこども芸術学科のフィールドワークの2011年度から3年間の記録である冊子「福祉 × アートの出会い」が参加者に配布されました。
以下に講演の概要を記します。
まずは、NPO法人きりん舎の設立、おめでとうございます。
今回の「遊ぶ心 – 踊る表現」というタイトルはすごくいいなと思います。
芸大で三十数年教鞭をとって来ましたが、芸大で教えることを突き詰めると、「お前らしく生きろ」ということになります。人生ですからいろんなことがあると思うんですけど、願わくばそれを希望に変える、面白くする、つまらないことでも、楽しむ術はあるんじゃないかと。要するに、どんな中にあっても人が生きるということと表現行為は繋がっているなと思うし、繋がっていて欲しいと思っています。
芸術教育は百花繚乱で、ほぼ何でも有りの状態になっていて、作品を作る行為については教えてきたが、「芸術って何だろう」とか「なぜ」という問いを、どこか置き忘れてきたような気がしています。
実は、ぼくの原点は幼い頃の川遊びや広場や竹林などの自然の中での一人遊びであったと思います。
今、芸術は色んなジャンルがあって、何でも有りになってきた故に、逆に根っこが見えなくなってきた。そういう根っこを問うような学科として、こども芸術学科が生まれました。そしてそれは、表現するってどういうことかということと、自分の中で向き合う大きなきっかけとなりました。
また、アートを通じて、子供達、障がい者、お年寄り、また暮らしを背負ってる中堅世代、子育て世代などすべての人間が生きていく上で、それぞれ表現行為、表現活動をどういう風に感じ、生きることを楽しくし、また辛いことも考え方次第でクリエイティブに面白くする工夫があるんじゃないかな、と考えてやってきました。つまり、「人間の成長発達に芸術はどのようにかかわるのか」というテーマです。
人は生まれてすぐから人間なのではなくて、人間になっていくと言うか、プロセスがあるなあという気がします。人は、アートすることと、人間になっていく、あるいは成長することが非常に密接な関係であって欲しい。その時に、子供性、子供心を忘れずにずっと持ち続けているということができるといいなあと思います。また、発達というのは変化というか、変容という側面があって、何か表現したいという欲求は、日々、新しく生きてるような気持ちや感覚の上にあると思います。
見ていただいている冊子には、こども芸術学科のフィールドワークが記録されています。こども芸術学科が始まる同時期に、「アート」と「ケア」が出会うという学会「アートミーツケア」学会が立ち上がりました。その中に、いくつか障害者の人たちといっしょに行った活動があります。
ぼくが接してきた障害者は一部ですけど、何かができるできないじゃなくて、そこでそういう風に生きてることが、何かすごい価値があると、ぼくは思うようになりました。つまり、生きていること自体が、世間に身を晒してる、世界に投げ出しているわけだから、もう既にそれが表現であると思います。また、生きてるということが、それはそれで何か表現しているような気がします。
「表現」という言葉には「表わし」と「現れ」の二つの意味が含まれています。表そうという気持ちと「現れ」との間には、対話、あるいはキャッチボールと言えるような相互作用が働く。そこには、画面と向き合う濃密な時間や場、思いの交錯、共振が存在する。表わそうという気持ちの動きが動機となり、こんな風に現れてきたというような結果、もしくは途中、作業をしながら、無意識的なものをも含めて作者もいろんなことに気づき、現れてきます。また、本人の自分という意識を超えた何処かからやってくる現れは広がりを持っています。
本冊子の「おわりに」という節に、ぼくとしての思いを書きました。
「障害者の存在は、人間の成長・発達とは何かを問う大きな契機と課題を投げかけてくれた。同時に、「こども」という心性に気づかせてくれる存在でもあった。多様性や価値観の多文化性など、芸術とは何かという心性にも大きな課題を投げかけてくれる。
芸術が、自然や精神性、時代性や社会性などとの関わりを通じて、その幅を広げ自由と幸せの領野を切り開いてきたとすれば、『こども芸術』は、人とのかかわりの芸術を切り開くものであってほしいと願っている。」
1970年後半から80年代にかけて、現代アートなど、とても難解になってきて、理論がわからないと芸術がわからないというような風潮も出てきました。そんな中から新しく「少年アート」というような概念も出てきました。そこには少年特有の、シャープな感受性と、表現したいものをぶつけるというような提案があって、アートシーンからも「確かになあ」っていうダイレクトな反省の声が出てきました。最近、そういう意味で出てきた「エイブル・アート」とか「アウトサイダー・アート」とか、こういう「アール・ブリュット」を初め、大きく芸術シーンを揺さぶる動きが出てきています。また、最近、ぼくらはシニアの世界に入ってきていますが、「シルバー・アート」というのがあるんですね (笑)。
アール・ブリュットも、そういうシルバー・アートも少年アートも、全部、共通性があるな、という風に思っています。それは生きるっていうことに初心だというか、新鮮な気持ちで日々を迎えるというか、絶えず喜びや楽しみを見出そうと言うか、そういう衝動的なものです。内発的、自発的な衝動と言うか行為に、表現っていうのは繋がっているんじゃないかなと思っています。子供の落書きみたいなものでも、どんなものでも大事にして欲しいなと。それはその時でないと描けない線なのです。
3歳児が塗りたくったような線、「何これきたない、何がかいてあるかわからん、って言わんといて」みたいな (笑)。「面白い線、この線は描けへんで」みたいな、そういう気持ちを日々の暮らしの中に、受け入れてもらえたらなという気持ちです。ま、こんなところかな。
なお、本ブログの内容は、公開後、修正・加筆があり得ますので了承ください。
文責: 岸田良朗 (本ブログ編集担当)
7月の展覧会は、滋賀県湖南市から社会福祉法人グローのバンバンアトリエで活動する5人の作品を紹介する展覧会です。また、会期中は、京都府立中丹支援学校の生徒・卒業生の作品も展示されました。初夏の緑あふれる綾部にギャラリーきりん舎を訪ねました。
最初に迎えてくれたのは畑名祐孝さんの東京タワーの連作(4枚)。よく見ると作品タイトルが作品の中に描きこまれています。俺はこれを描く!と名乗りを上げているようで微笑ましい迫力があります。画面を再構成するように描かれた墨汁の線の上に、パステルやクレヨンでたんねんに色が重ねられており、力強さのなかにも奥行きを感じる作品です。
村井崇さんの作品。こちらは、パステルで塗り重ねられたうえに墨痕あざやかにモチーフのシルエットが描かれています。ヒョウやカメが定番のモチーフだそうですが、最近は、身近な人なども描きはじめたそうです。
宮本亮さんは油絵の作品です。車いすで生活し、腕も自由に動かない彼は、指先だけでこの絵を描きます。乾くのがおそく、伸びもよい油絵の具は、彼の作画のリズムにピッタリの画材だったようです。調色された絵の具を少しづつ塗り重ねていった画面の変化を追いかけると時間を忘れてしまいそうです。
久保田洋子さんの強烈な女性を描いた作品。吸い込まれそうなくらい巨大に描かれた目と執拗なぐらいにたんねんに描かれた髪の毛が特徴です。モチーフはファッション雑誌から選んでいるそうです。
西村真智子さんの作品は、画面いっぱいに描かれた個性的なキャラクターたちが、不思議な世界を醸し出しています。2次元的でポップな作品なのに、さまよい込んだら帰ってこれないような異次元感覚を感じました。
最後に府立中丹支援学校の作品を紹介します。中丹支援学校からは学生と卒業生4名の作品が展示されました。水彩画は音楽の授業でしょうか。卒業生の高本和弥さんは迫力満点の怪獣作品。小さな怪獣たちは箸置きだそうです。
12日はギャラリーきりん舎NPO発足記念イベントとして水野哲雄(京都造形芸術大学名誉教授)・井上多枝子(バンバンアトリエ担当、NPO法人はれたりくもったりアートディレクター)両氏による講演会と座談会を開催しました。講演会と座談会の様子は別記事にてご紹介いたします。
「ワークセンターとよなか」のにぎやかな看板が庭に置かれ、いつもと違う雰囲気のきりん舎。ギャラリーの中も鮮やかな作品にあふれています。3月8日はワークスセンターとよなかから、展示作品の作者と職員の方々合わせて10名がきりん舎を訪れて大賑わいになりました。
庭のあちこちに出現した陶器の「ウサギとカメ」たち。竹林 亨さんの作品は、両掌におさまるサイズで、釉薬をかけた甲羅はつるつると丸くてかわいらしい。多数の亀と1匹の兎が、ともに庭に棲む生きもののようです。原料は猪名川でとれた粘土。夕暮れの猪名川で撮影されたカメの写真の展示もあり、カメの視点が水面に写っています。
中森 昇さんは驚異的なスピードで、午前中から昼にかけて絵を描き、午後のうちに陶オブジェの形を作ってしまいます。「花」「花の顔 顔と手」などの絵は、何度も塗り込まれたクレヨンが鮮やか。陶オブジェと合わせて繰り返し現れるモチーフは、なんらかのイメージの連関に意味が込められていると感じます。
山本 陽子さんの「海と太陽」(写真左)はリユースされた紙筒に紙を貼りつけ、その上から直接彩色した作品。明るいイメージを描きたかったという作者のイメージどおり、ありとあらゆる存在が生を謳歌するようにいきいきと描かれています。素材に選んだ円筒というアイデアが、表現したいテーマによく合っています。(写真右は宮崎 博明さんの「リメイクギター」)
吉田 有希さんの作品「妖怪ウォッチ」「ミヤネ屋」「ポケモンネットTV」は、毎日の新聞テレビ欄から気になった番組のコピー全てをキャンバスに書き写したもの。四角い白地のキャンバスに、律儀な様子で記録されたテキストを一つ一つ読むうちに、日常の「あわい」が作者という存在に刻まれる瞬間に立ち会う感覚を覚えます。
「年越しPARTY 2013→2014」「リメイクギター」「3人目よ」など、身の回りのあらゆる「面」をキャンバスにしてしまう宮崎 博明さんの作品。緻密ながら自由な筆さばきや、知的な読み替え作業から生まれる色彩と模様からは優しい気持ちやユーモアを感じさせ、それらが一体となって画面が移り替わっていく様子は見事の一言に尽きます。
わら半紙に描いた「お花」や、段ボールの地を残し、白く塗った背景に浮かび上がる3輪の赤い「大きなお花」。市賀 妙子さんが描いた美しい花は、他者と異なる世界観があります。余白が花を引きたて、優しげで孤高の存在を凛として見せています。作者の花への語りかけは、静かに耳を澄まさないと聞き逃してしまうようです。
大蔵 暢弘さんの記録は、タイポグラフィへの偏愛と、技術の高さがわかる展示。「ロッテリア」「笑点」「JJ」といった町のサイン、テレビ番組や雑誌のロゴなど、あらゆる記号を記憶だけで忠実に粘土で再現し、出来た途端に潰してしまうので、職員が写真や動画で撮影。作者を突き動かす謎と、リセットまでの一連の動作は不思議な共感を覚えます。
同様に映像記録で展示された溝渕 康信さんの「車」。数えきれない絵には、概ね四角い輪郭線の中に横の棒線が色とりどりに何本も走っています。線が力強い日もあれば、繊細な日もあり、職員の方が編集した数秒単位のコマ送りにより、刻々と変わる線と色が新たな表現となり、作品テーマにスピード感を与えているのも面白く感じられました。
人一倍お洒落でかっこいい着こなしが印象的だった井上 勇さん。琵琶湖で蒸気船ミシガンに乗った記憶をもとに描いた「ミシガン」が展示されています。段ボールにクレヨンで、蒸気船らしく後部の赤い外輪を備えた白い船体。のびのびとした筆致の心地よさは、グッズの絵付け皿のほうでも存分に表れていました。
今回の展示では、Tシャツや陶器皿などの小物グッズの販売コーナーも充実しており、センター利用者と職員が二人三脚となって、楽しく取り組んでおられる様子が伝わりました。